脳がない!

カリソメの体でしか生み出せないものたち

狂気を許すことは即ち愛か。

この間読んだ小説に、溺水する人を見ていることに性的興奮を感じる人と、溺水することに性的興奮を感じる人との異常性癖から生じる愛を描いた小説があった。

とあるアーティストが歌う歌には、「事故で亡くした夫から取り出した精子で受精成功、これってすごい愛じゃない?」という趣旨の歌詞がある。

性癖には色々あるのは周知の事実で、各々に〇〇フィリアなんて言葉が付けられて具現化されている。

それが理解に及ぶか及ばないかは置いておいて。

しかしとある漫画家の作品には、「本当の変態とは名付けることのできない欲望を抱えた人間のことを言う」とも描かれている。

これは私の持論だけれど、人は誰しもひとつやふたつ、異常性を持ち合わせているものだと思う。

 

果たして、それらを許せることは即ち愛なのだろうか。

 

とあるコラム記事に、男性が女性に対して特殊性癖を要求するのはその場限りの相手だからするのであって、本命の愛したい女性に対してはそんなことできない、といったことが書かれていたのを見たことがある。

一方で、体の相性が合う人や性癖を寛容してくれる人に対してとんでもなく愛おしく思う、といった内容の記事も存在する。

結局のところ、曝け出せる相手こそ欲しいけれども愛しい相手に対してそれを打ち明けて、その上で愛されるかどうか不安なのだろうな、といった私の中での結論に達した訳だけれども。

 

私は、首を締められるのが好きだ。

そして、最期、心から愛しく大好きだと思っている相手に殺されたいと思っている。

そしてその相手は私を殺した上で平然と生きて、それで偶に、一年に一回でもいいから私のことを思い出して、死にたくなってほしいと思っている。

これが私の抱える異常性癖のひとつ。

私はこの性癖に対して、これって物凄い愛じゃない?って、冒頭の歌詞のように感じているのだけれど。

 

愛なんてそんな、不定形のものに対してどれそれと定義することは難しい。

目に見えないものはすべて、定義が各々に存在するからだ。

しかしでも、誰に何を譲れなくたって、どんなものを隠し持っていたとしても、相手のそのままを好きでいられるなら、それこそが愛なんだろうな、という定義付けは一様に変わらない。

間違って、どんなことを犯したとしても、愛していると呼べる相手が、吐き気のする程に苦しくて、極上に甘く愛しい。