脳がない!

カリソメの体でしか生み出せないものたち

SAI 〜私達はどう生きるか〜

暫くずっと、書かないようにしていた、それは、時間的猶予の無さが半分、故意的にそうしていたことが半分。

それは、少しだけ、何かを伝えるだとか、考えを述べるだとか、そういうことについて、不安を抱いたからだ。

ずっと、誰かを、何かを、好きと言うことは、善だと思っていた。

誰が、誰を好きになってもいいんだ、という映画の言葉や、好きが君を形成しているんだ、という本の言葉を、丸々ごそっと信じていた。

けれど、何かを好きと言う事が、別の誰かを傷付ける事になる可能性は、丸で懸念していなかった。

 

私は、椎名林檎が好きで、それは、当時中学生だった私の友人が、好きでずっと聴いていたことがきっかけだったのだけれど、私がその影響で好きになって、その結果、死に物狂いとはこのことか!なんて呆気にとられる程に聴きまくって詳しくなった。

そして、詳しくなり過ぎた。

好きになり過ぎたことが原因で、元々私にお勧めした彼女よりも詳しくなってしまって、結局その友人に嫌われてしまった。

親友だったのだ、子供の頃の人間関係なんて茶番だと言われてもその当時にしたら、それは友情と呼べたものだったのに。

好きの過剰投下で、ひとつの友情を破綻させた事がある。

それをすっかり今日まで忘れていた。

 

東京タワーの光が好き。

(でもスカイツリーを好きな人からしたら嫌がられるのだろうか。)

セロリが好き。

(でもセロリって嫌いな人多いからあまり頼みにくいよね。)

煙草の香りが好き。

(でも煙草は煙たがられるし、まず健康に害だって。)

あの子が好き。

(でもあの子が私を好きとは限らないし。)

君が好き。

(でも君のことを好きな女の子のこと、傷つけちゃうかもしれない。)

 

最近のテレビの話題はスキャンダルや熱愛ニュースで賑わっていて、ちっとも政治に深入りした話は特集されなくなってしまった。

(いや、まぁテレビ自体そんなに観ないのですけれども。)

不倫のニュースなんて、そんなに人の不幸が蜜の味かと思われるくらいに話題になって、人様の事情なんて周りが口出すことではないだろうと訝しるもしかし、でもきっと、どこかで自分に重ねているのかもしれないね。

「こんなこと、(自分がされたらとてもじゃないけれど悲しいから)可哀想。」と。

 

「好き」という、その内側を知ろうとすればそれだけ、爆発が起きる、と、最果タヒ氏は詩集の冒頭に記述していた。

いつか別れるのに、それがいつになるか分からないから、それが恐怖として存在する、と、F氏は自身のSNSで発信していた。

私は、もう、人様の好きや嫌いや、関係性の崩壊を怖がっていたら、誰のことも何の事も好きになれやしないじゃないかクソッタレ、と思うようにした。

それが散々崩壊を繰り返そうとも致し方ない、くらいの精神で。

 

どう生きるか、どう出会うか、どう別れるか、どう死ぬか。

私達にとって至極当たり前の、今日や明日だけで済まされないその煌めく毎日の為に、それでもきっと別れるのも死ぬのも今日ではないと信じ切って、この秒針の一針を生き抜く、そりゃあもう、木っ端微塵になるくらい。

だからもう、とりあえず生きていましょう、生きていれば、それでも繋がる何かがあれば、きっと会えるよ、君も、私も、大切な誰かや何かに。

 

再、彩、歳、災。

再生、そして、最果て。