脳がない!

カリソメの体でしか生み出せないものたち

錯綜

昔から、一人遊びが上手だったので、誰に会わずとも、どこに行かずとも、案外悠々自適な生活ができてしまうから、淘汰された挙句に、結局必要だったものはほんの少しの手に握れる程で、大概が、娯楽か、暇を持て余したか、ちょっとの気分に揺れ動かされただけのものだったように思う。

 

情報というものが、錯綜し過ぎていて真偽が掴めないことが多いな、と感じるのは、多分どこにも出掛けなくなったお陰で情報ツールを駆使するようになった事と、人と喋らなくなったことが起因しているんだと思う。

今に始まった事ではないのだろうけれど、それにしたって有耶無耶な発言をする輩は一定以上に増えた気はする。

そして更に、そこに怒りの感情を持ち込む事によって益々霞ませている事に気付けていない。

高圧的な態度で怒る上司や、先輩や、先生の言う事を、理解出来たことがあったろうか、と、考えてほしい。

怒りの感情をぶつける事は、当人の憂さ晴らしでしかなくて、伝えるには一番遠回りな方法だと思う。

怒ったところで何一つ、伝播されない。

 

私はコロナ渦中の病院で、コロナ検査をする人間のひとりで、そうすると大変だろう、と、感謝の声もよく届く。

有り難いことではある、が、誰しも目の前に仕事を置かれたらやるのではないか?とも思っている。

仕事にはリスクが伴う、どんな仕事にも。

そのリスクに対する覚悟の上で、給料を貰っているのだから、何も褒められたことではない、自分の為だ、まして仕事があることの方が有り難い。

と、いう話をするのも、私はこのご時世だからと「今私達は死ぬ気で働いています!どうかエールを下さい!」と言っている医療従事者にただただ鳥肌が立つからだ。

 

与えられる事が当たり前と思うなよ、と感じる事が増えた。

見てください、聞いてください、助けてください。

皆、同じだ、誰しも各々のベクトルで大変なのだ。

自分ばかり特別とは思わない方がいい。

こういう事態になるとまず娯楽が最初に消える、至極当たり前に。

そしてそれの消費を手助けしていた他の産業も共倒れていく。

自分の事で精一杯だ、手助けするだけの余裕がある人はごく一部だと思う。

それでも、忘れないでとは、思う。

またいつか、帰って来てください、あなたの余裕ができたらでいいから、と。

常は、当たり前ではなく、与えて与えられて成り立っていた事を努努忘れてはいけない。

 

そろそろ夏が来る。

夏に考えていたことは何だったか、何をしていたか、何を感じていたか。

でもやはりどんな時だって、やらねばならない事は変わらない気がするのだ。