脳がない!

カリソメの体でしか生み出せないものたち

脆弱性

自粛期間って、決して悪い訳ではないよね、人と会わなければ人から嫌われる事もそれに怯えることもなければ、自分が何かの過ちで人を傷つけてしまうこともないのだから、と、ネガティブ信仰者は申していた。

この点、確かにそうだとただ頷く。

 

爪弾きにされる事は苦ではない、馬が合わぬと目の敵にする人はどうせこちらが何をしたって非難するからだ。

だからといって、好んで忌避されているような奴なんかはただの天の邪鬼だ。

人と接するのが苦手だ、口は災いの元と言うが、それが起因して傷付けたり忌み嫌われる事は少なくない。

人を傷付けたり、または傷付けられたり、勘違いで思い込みされたりするのが恐怖だった、故に気付いた頃には縁切り癖がついていた。

自分から連絡を取る事も少なければ、遊びの計画は大概他人任せだし、そもそも人の目を見て話すのが得意ではない。

だからこそではあるが、私の数少ない友人には、いやまったく同類の様な人や変わったような奴や、常識人とは言えない人もまま多かったが、至って感謝しかない。

 

苦手なタイプの人間は一定数いたけれど、その苦手なタイプのひとつが友人と思っている人の特徴のひとつだったとして、邪険に思うことはない、それよりも個としての傾慕の方が勝るからだ。

然しながら、一人を好むことも起因して、嫌いと思われていると勘違いされる事もあった、君どうせ自分みたいな奴は嫌いなんだろ?と。

どちらかと言えば寧ろ、苦手な事があるのにも関わらず、あなたを好きでいるのだから強固じゃない?という意図があるのに伝わらない、口下手だと呆れられる。

こんな人が人間関係の禍の中で働くなんぞ、と、昔を知っている人間からは嘲笑われた。

分かっているさ、そんなこと、優しくできるタイプでも好かれるキャラクターでもないことくらい、と、皮肉まがいに言い放った言葉は宙を泳いだだけで自分に反響した。

思えば、そうやって大事に築いてきたものが、何かをきっかけに水の泡のように、砂となって掌からすり落ちてしまうから、他人が他人としてでしか存在してなかったのだろう。

だから、その点、一向に穏やかである、誰とも会わないというのは、何せプラスにもマイナスにも差し迫らないから。

 

だからといって、会いたい誰かがいないわけでは決してない。

そしてその会いたい誰かが特定唯一の誰かに留まるわけでもない、もちろん、家族や恋人、友人といったベクトルの差はあれど。

何処の店もやっていないのは不便極まりないけれど、何処の店もやっていないからこそ後悔することが減った。

あぁ、昨日行っとけばよかったな、会っとけばよかったな、なんて妬む事がない故に一層心が歪むことがないことは否めない。

一人が好き、けれど、一人でいたいかどうかはその時々によりけりだ。

他人が好き、妬ましく思うくらいに人と接するのが何しろ刺激となって昇華させるこの興奮が、私は誰彼構わず楽しく会話できるんだと錯覚させるくらいには。

色んな人と知り合いたい、楽しく話したい、そして出来たら仲良くできたら嬉しい、それでその上で可能なら、好いてくれたら居心地がいい。

夢見がちなそんな幻想だって、可能にしている人は沢山いる筈で、何となく一人遊びが得意でない人と友達にはなれないわ、なんて思いながら、それでもここにひとりで書き示して、あぁ、忘れられるのが嫌なのかもなと呆れ狂う。

 

夏が空を照らす頃には、もう少し濃密な交錯ができているといいですね。