脳がない!

カリソメの体でしか生み出せないものたち

通行人のフリをしながら

マスクが表情を枯らしたときに、寂しい時代だと言った。

お気に入りの本を貸した、それっきり返ってこないけれど、いつか会うための口実に残しておこうと、大好きな本は大好きな人の手に渡ったまま、新品を買わずにいる。

さよならも言わずに、きっともう会えなくなった人が増えていく。

そういう人達のことを、ふと思い出す。

きっと、今もどこかで優しく暮らしているんだろうなということを思って、すれ違う誰かであったかもしれないと思って、生きている実感をする。

 

何時間か、もう忘れたけれど、待ち合わせ場所に来ない相手を待った時に、生きてる時間が違う人や、流れる速度の違う人が何度も何度も目の前を通り過ぎていった。

新宿伊勢丹の交差点で、気付いたら日が暮れ、ビルがライトアップされて、終いには閉店をお知らせしたシャッターが閉まっていた。

それでも待ち続けた。

あのビルの上から飛び降りたらどうなるんだろうとか、この男女のどこまでが真実なのだろうとか、量産された服を着て何処へ行くのだろうとか、まったく動かない私の時間の上で通行人がいくら飛び跳ねていても、当の私はというと時計の針を時と認知する手前で眺めているだけだった。

けれどもそれらは、誰にも侵すことのできない、たった私だけの流れであった。

何年か経った後も、すれ違った人達の色も形も、何で待っていたのか何が悲しかったのか、すべて忘れるのだろうけれど、ここから見た伊勢丹の景色だけは覚えているような、そんな気持ちがしていた。

きっと、彼らもその程度に生きていた。

私を通行人と認知してか知らずか、それでもどこかですれ違った赤の他人が、楽しかろうが寂しかろうが、きっと今も生きていることが、気持ち悪くて奇妙で嬉しくて仕方がない。