脳がない!

カリソメの体でしか生み出せないものたち

明日死ぬかもしれない

たまに、私のことを誰も知らない街に逃げたくなる。

明日のことなんて考えないで、深夜の特急電車に突っ込みたくなる。

でも、誰かがそれを止めるでもないのに、きっと、しばらく経ったら忘れてしまうかもしれないのにそれをしないのは、いつだってひとりぼっちで、いつだって寂しくて、そんなことをせずとも夜の風に当たれば生きている現実だけが押し寄せるから。

誰とも繋がっていない感覚を味わいたいなら、スマホの電源を落とせばいい、簡単なこと。

例えばひとり欠けたって、朝はやってきて生活が目覚めて、どうせ毎日が繰り返されてゆくのだから。

 

承認欲求なんて下らないと思っていたけれど、そう思っている時点で気にしているのだと思う。

あらゆる事象は認識から始まるから、考えたくないのなら認識しなければいい。

この瞬間に、どこかで誰かが生まれて、死んで、を生産していることに対して、喜びも悲しみもしないのは私がそれを認知していないからだろうし、誰も己の細胞の生死さえ知らないで生きている。

だけどそうやってそこで、胡座かいて鎮座してるの、傲慢だろって誰も言わないね。

それなのに、愛を無償で求めることに対しては傲慢だって言うんだ、理不尽だろ。

 

だからこそ、君にもし、無償で愛せる人がいるならば。

大切な誰かがいるならば。

そうだと伝えた方がいいし、そういう情は愛しく抱えて生きた方がいい。

明日も隣にいてくれる人がいるなら、それがどんな関係性であれ、きっと幸せなんだと思うから。

ハッピーエンドがすべて100点満点じゃなくても構わない。

 

おはようおやすみ、また明日。