脳がない!

カリソメの体でしか生み出せないものたち

追伸、あなたは喪失の淵で何を見ますか?

拝啓、お元気ですか。

今日も順調に、だめだったり、だめじゃなかったりしてますか。

それでいて、元気?って聞かれたら元気じゃなくても元気って答えて、大丈夫?って聞かれたら大丈夫じゃなくても大丈夫って答えてますか。

最近の空は調子が良かったり悪かったり、何だか美味しそうな色がしてますね。

そんな日には、どこにもあげる予定のない写真を撮って、越に浸ってるのですが、そういえば写真って元々は誰かに見せびらかす為ではなく、思い出のパノラマだった気がします。

何でもかんでも名前のあるものに落とし込もうとする感じとか、知れば知る程に畏怖とその広さを失ってく感じとか、そういうのが何だか嫌で時折逃げ出したくなります。

逃げた先に何があるか、想像に乏しくて、楽しさや悲しみは、慣れと共に失われていく気がします。

安心したい、完成されたい、などと言いながら、精神的に何かを欠いてる人間の方が面白く魅力的に映ってしまうこの感覚。

ていねいなくらし、だとか、キラキラしたスタイル、だとかをしている人がどこかフィクションに見えてしまう。

部屋も心も散らかったまま、しなければならない事はずっと溜め続けて、そのまま蔑ろになってしまったり見えない所に隠し込んだりして誤魔化しているのですね。

きっと私が死んでもあなたはしばらく気付かないだろうから、ずっと蝉の心臓のまま人でいようとしています。

どうかその死骸が、あなたによって踏み潰されますように。

落日

折角写真機で撮った写真は、ひとつのボタンの掛け違いの所為でぜんぶぼけて映っていた。

揺らめく残像がエモいね、なんて、そんなエモーショナルさは君を前にしたら無力だ。

散りばめられた蝉の死骸の断片で、安上がりな笑顔のまま御託に並べる。

夜の照り返しの息苦しさを、放り出されたドレスシューズで歩く。

頑張らなかった。

だから、私は抱きかかえて逃亡するその物さえ持ち得ないし、逆に何も残らないからいつでも忘れられる筈だった。

即ち自分の目の前の仮染の愛着の喪失よりも、余所行の美味たる笑い声を喜べると思っていた。

遥か先の事を見据えて、きっと私はそこにいないと何となくで分かってしまって、けれど誰にも打ち明けることのないままに、手に余る砂を握り潰して零す。

どこにも行けないね、これでは、きっとどこにも行けないね。

 

真夏の水槽

だんだん、疑問に思わなくなっていく。

なんで、とか、どうして、とか、思わなくなっていく。

順応してって、壊れないように、崩さないように、丸め込む。

忘れていく。

何を疑問に思っていたのか、何に対して儚く絶望を抱いていたのか。

小さい夜が幸せだったことも。

小さく咲いた向日葵の花も。

コンビニまでの道のりの蒸し暑さや炭酸が抜けたコーラの味も。

朝からけたたましい蝉の鳴き声も。

くっついた肌の湿っぽさも。

干したシーツからのそよ風や、雲ひとつない空の青さも。

大きさの歪つなTシャツの色も。

忘れてしまう。

そのひとつひとつの過ぎ去った日々の優しい記憶が。

永遠みたいな色をして、永遠みたく歌を唄って、それに何の疑問も持たずに。

その間にある小さな種を取り零してることにも気付かずに。

痛みとか辛さとか、あ、これは乗り越えてきた痛みだなとかって、勝手にその経験の上の物差しで測って、そういう、苦しみを丸め込んで緩和する、意識の外で。

もっと、さよならだとか、ありがとうだとか、好きとか嫌いとか、綺麗に言えなくていいのに。

もっと不格好で良かったのに。

笑ってる。

いつまでも、知らんぷりして笑ってる。

もぐ

この間、焼肉食べに行ったんですよ。

本当に美味しかったんですけどね。

好物って聞かれたら、きっとそれ以上に好きなものいくつも出てくるし、ランキングで言ったらトップ10にも入ってないんですよ、焼肉って。

うどんとか、パスタとか、そっちの方が断然好きで、断然よく食べる。

でも、焼肉、好き。

敷居が高いというか、リッチというか、そんな料理だと思うんですよ、肉焼くだけなのに。

食べるアトラクションみたいで楽しいって言ったら笑われたけど、気分は遊園地、待ち侘びた小学生みたいな佇まいで紙ナプキンを首にかける。

だってきっと、家でやるには準備が面倒で、洋服の住処になってる私の部屋ではちょっと無理。

必然的に外食になるから、そこで贅沢その1。

あと多分他の料理と違って、わざわざ焼肉って目的だけでその店に行く、居酒屋とかレストランのメニューのひとつに焼肉、なんてそんな豪勢なこと、見たことない、から、贅沢その2。

前提としてまず胃の調子が良くないと、油で全部もってかれて胃もたれする。

元気じゃないと食べることすら危ぶまれるから、贅沢その3。

それに多分だけど、1回目のデートじゃ使わないよね。

2回目でもきっと行かない。

3、4回目になって親しくなってきたらようやく、そういえば焼肉食べたいんだよなって話題に出すぐらい。

そんじょそこらの簡単な関係の上では行けないからハードル高い、贅沢その4。

その上で、この人は焼くのかな、それとも焼かれるのを待つのかな、そういうのを見るのが楽しい。

奉行、みたいな人もいるね、たまに。

ほぉ、と思って見る、でも逆に焼いてみたりするのも好き、別にどっちでもいい、けど、どうするのか、どうしたいのかが気になる、それでどうこう思うわけではない、へぇ、って思う、それだけ。

でもなんとなく、ちょっと一緒にいて楽しい人とか、ちょっと安心できる人とは、焼肉行きたいなーって思うんですよね、別に人を選んでる訳じゃないけど。

とか言いつつ、職場の同僚と急上昇も急降下もしない焼肉アトラクションに行ったりもするから何とも言えないのですが。

明日を迎えたくなくなったら、行くといいですよ、焼肉。

元気になるから。

そういえば、私最近、カニ食べたいってずっと思ってるんですよね。

私は母にはなれない

急ブレーキを途端にかけたときに制する左腕。

自転車は得意ではなかった。

毎日送られてくる一文。

冷凍食品の味が不味い。

花壇の花にはいつ水をやってるのか知らない。

いつものメニューにレシピなどなかった。

私はニュースを見ない。

一人暮らしをするまで物の物価など知らぬも同然だった。

手紙は未だに実家に届く。

食器の数は同じものが3つ4つあったはず。

一人で住むには広すぎる間取り。

泣き腫らすには十分過ぎる。

正解と正しさは似て非なるものだ。

たった一回の殴られた記憶は鮮明なくせに、当たり前の事ほど不鮮明だ。

その、たった一回きりで。

同様に、追い詰められているのだと、知ったのはこの歳になってからだ。

私は、母にはなれない。

命があまりにも、  過ぎるから。

脆弱性

自粛期間って、決して悪い訳ではないよね、人と会わなければ人から嫌われる事もそれに怯えることもなければ、自分が何かの過ちで人を傷つけてしまうこともないのだから、と、ネガティブ信仰者は申していた。

この点、確かにそうだとただ頷く。

 

爪弾きにされる事は苦ではない、馬が合わぬと目の敵にする人はどうせこちらが何をしたって非難するからだ。

だからといって、好んで忌避されているような奴なんかはただの天の邪鬼だ。

人と接するのが苦手だ、口は災いの元と言うが、それが起因して傷付けたり忌み嫌われる事は少なくない。

人を傷付けたり、または傷付けられたり、勘違いで思い込みされたりするのが恐怖だった、故に気付いた頃には縁切り癖がついていた。

自分から連絡を取る事も少なければ、遊びの計画は大概他人任せだし、そもそも人の目を見て話すのが得意ではない。

だからこそではあるが、私の数少ない友人には、いやまったく同類の様な人や変わったような奴や、常識人とは言えない人もまま多かったが、至って感謝しかない。

 

苦手なタイプの人間は一定数いたけれど、その苦手なタイプのひとつが友人と思っている人の特徴のひとつだったとして、邪険に思うことはない、それよりも個としての傾慕の方が勝るからだ。

然しながら、一人を好むことも起因して、嫌いと思われていると勘違いされる事もあった、君どうせ自分みたいな奴は嫌いなんだろ?と。

どちらかと言えば寧ろ、苦手な事があるのにも関わらず、あなたを好きでいるのだから強固じゃない?という意図があるのに伝わらない、口下手だと呆れられる。

こんな人が人間関係の禍の中で働くなんぞ、と、昔を知っている人間からは嘲笑われた。

分かっているさ、そんなこと、優しくできるタイプでも好かれるキャラクターでもないことくらい、と、皮肉まがいに言い放った言葉は宙を泳いだだけで自分に反響した。

思えば、そうやって大事に築いてきたものが、何かをきっかけに水の泡のように、砂となって掌からすり落ちてしまうから、他人が他人としてでしか存在してなかったのだろう。

だから、その点、一向に穏やかである、誰とも会わないというのは、何せプラスにもマイナスにも差し迫らないから。

 

だからといって、会いたい誰かがいないわけでは決してない。

そしてその会いたい誰かが特定唯一の誰かに留まるわけでもない、もちろん、家族や恋人、友人といったベクトルの差はあれど。

何処の店もやっていないのは不便極まりないけれど、何処の店もやっていないからこそ後悔することが減った。

あぁ、昨日行っとけばよかったな、会っとけばよかったな、なんて妬む事がない故に一層心が歪むことがないことは否めない。

一人が好き、けれど、一人でいたいかどうかはその時々によりけりだ。

他人が好き、妬ましく思うくらいに人と接するのが何しろ刺激となって昇華させるこの興奮が、私は誰彼構わず楽しく会話できるんだと錯覚させるくらいには。

色んな人と知り合いたい、楽しく話したい、そして出来たら仲良くできたら嬉しい、それでその上で可能なら、好いてくれたら居心地がいい。

夢見がちなそんな幻想だって、可能にしている人は沢山いる筈で、何となく一人遊びが得意でない人と友達にはなれないわ、なんて思いながら、それでもここにひとりで書き示して、あぁ、忘れられるのが嫌なのかもなと呆れ狂う。

 

夏が空を照らす頃には、もう少し濃密な交錯ができているといいですね。

錯綜

昔から、一人遊びが上手だったので、誰に会わずとも、どこに行かずとも、案外悠々自適な生活ができてしまうから、淘汰された挙句に、結局必要だったものはほんの少しの手に握れる程で、大概が、娯楽か、暇を持て余したか、ちょっとの気分に揺れ動かされただけのものだったように思う。

 

情報というものが、錯綜し過ぎていて真偽が掴めないことが多いな、と感じるのは、多分どこにも出掛けなくなったお陰で情報ツールを駆使するようになった事と、人と喋らなくなったことが起因しているんだと思う。

今に始まった事ではないのだろうけれど、それにしたって有耶無耶な発言をする輩は一定以上に増えた気はする。

そして更に、そこに怒りの感情を持ち込む事によって益々霞ませている事に気付けていない。

高圧的な態度で怒る上司や、先輩や、先生の言う事を、理解出来たことがあったろうか、と、考えてほしい。

怒りの感情をぶつける事は、当人の憂さ晴らしでしかなくて、伝えるには一番遠回りな方法だと思う。

怒ったところで何一つ、伝播されない。

 

私はコロナ渦中の病院で、コロナ検査をする人間のひとりで、そうすると大変だろう、と、感謝の声もよく届く。

有り難いことではある、が、誰しも目の前に仕事を置かれたらやるのではないか?とも思っている。

仕事にはリスクが伴う、どんな仕事にも。

そのリスクに対する覚悟の上で、給料を貰っているのだから、何も褒められたことではない、自分の為だ、まして仕事があることの方が有り難い。

と、いう話をするのも、私はこのご時世だからと「今私達は死ぬ気で働いています!どうかエールを下さい!」と言っている医療従事者にただただ鳥肌が立つからだ。

 

与えられる事が当たり前と思うなよ、と感じる事が増えた。

見てください、聞いてください、助けてください。

皆、同じだ、誰しも各々のベクトルで大変なのだ。

自分ばかり特別とは思わない方がいい。

こういう事態になるとまず娯楽が最初に消える、至極当たり前に。

そしてそれの消費を手助けしていた他の産業も共倒れていく。

自分の事で精一杯だ、手助けするだけの余裕がある人はごく一部だと思う。

それでも、忘れないでとは、思う。

またいつか、帰って来てください、あなたの余裕ができたらでいいから、と。

常は、当たり前ではなく、与えて与えられて成り立っていた事を努努忘れてはいけない。

 

そろそろ夏が来る。

夏に考えていたことは何だったか、何をしていたか、何を感じていたか。

でもやはりどんな時だって、やらねばならない事は変わらない気がするのだ。