脳がない!

カリソメの体でしか生み出せないものたち

真夏の水槽

だんだん、疑問に思わなくなっていく。

なんで、とか、どうして、とか、思わなくなっていく。

順応してって、壊れないように、崩さないように、丸め込む。

忘れていく。

何を疑問に思っていたのか、何に対して儚く絶望を抱いていたのか。

小さい夜が幸せだったことも。

小さく咲いた向日葵の花も。

コンビニまでの道のりの蒸し暑さや炭酸が抜けたコーラの味も。

朝からけたたましい蝉の鳴き声も。

くっついた肌の湿っぽさも。

干したシーツからのそよ風や、雲ひとつない空の青さも。

大きさの歪つなTシャツの色も。

忘れてしまう。

そのひとつひとつの過ぎ去った日々の優しい記憶が。

永遠みたいな色をして、永遠みたく歌を唄って、それに何の疑問も持たずに。

その間にある小さな種を取り零してることにも気付かずに。

痛みとか辛さとか、あ、これは乗り越えてきた痛みだなとかって、勝手にその経験の上の物差しで測って、そういう、苦しみを丸め込んで緩和する、意識の外で。

もっと、さよならだとか、ありがとうだとか、好きとか嫌いとか、綺麗に言えなくていいのに。

もっと不格好で良かったのに。

笑ってる。

いつまでも、知らんぷりして笑ってる。

もぐ

この間、焼肉食べに行ったんですよ。

本当に美味しかったんですけどね。

好物って聞かれたら、きっとそれ以上に好きなものいくつも出てくるし、ランキングで言ったらトップ10にも入ってないんですよ、焼肉って。

うどんとか、パスタとか、そっちの方が断然好きで、断然よく食べる。

でも、焼肉、好き。

敷居が高いというか、リッチというか、そんな料理だと思うんですよ、肉焼くだけなのに。

食べるアトラクションみたいで楽しいって言ったら笑われたけど、気分は遊園地、待ち侘びた小学生みたいな佇まいで紙ナプキンを首にかける。

だってきっと、家でやるには準備が面倒で、洋服の住処になってる私の部屋ではちょっと無理。

必然的に外食になるから、そこで贅沢その1。

あと多分他の料理と違って、わざわざ焼肉って目的だけでその店に行く、居酒屋とかレストランのメニューのひとつに焼肉、なんてそんな豪勢なこと、見たことない、から、贅沢その2。

前提としてまず胃の調子が良くないと、油で全部もってかれて胃もたれする。

元気じゃないと食べることすら危ぶまれるから、贅沢その3。

それに多分だけど、1回目のデートじゃ使わないよね。

2回目でもきっと行かない。

3、4回目になって親しくなってきたらようやく、そういえば焼肉食べたいんだよなって話題に出すぐらい。

そんじょそこらの簡単な関係の上では行けないからハードル高い、贅沢その4。

その上で、この人は焼くのかな、それとも焼かれるのを待つのかな、そういうのを見るのが楽しい。

奉行、みたいな人もいるね、たまに。

ほぉ、と思って見る、でも逆に焼いてみたりするのも好き、別にどっちでもいい、けど、どうするのか、どうしたいのかが気になる、それでどうこう思うわけではない、へぇ、って思う、それだけ。

でもなんとなく、ちょっと一緒にいて楽しい人とか、ちょっと安心できる人とは、焼肉行きたいなーって思うんですよね、別に人を選んでる訳じゃないけど。

とか言いつつ、職場の同僚と急上昇も急降下もしない焼肉アトラクションに行ったりもするから何とも言えないのですが。

明日を迎えたくなくなったら、行くといいですよ、焼肉。

元気になるから。

そういえば、私最近、カニ食べたいってずっと思ってるんですよね。

私は母にはなれない

急ブレーキを途端にかけたときに制する左腕。

自転車は得意ではなかった。

毎日送られてくる一文。

冷凍食品の味が不味い。

花壇の花にはいつ水をやってるのか知らない。

いつものメニューにレシピなどなかった。

私はニュースを見ない。

一人暮らしをするまで物の物価など知らぬも同然だった。

手紙は未だに実家に届く。

食器の数は同じものが3つ4つあったはず。

一人で住むには広すぎる間取り。

泣き腫らすには十分過ぎる。

正解と正しさは似て非なるものだ。

たった一回の殴られた記憶は鮮明なくせに、当たり前の事ほど不鮮明だ。

その、たった一回きりで。

同様に、追い詰められているのだと、知ったのはこの歳になってからだ。

私は、母にはなれない。

命があまりにも、  過ぎるから。

脆弱性

自粛期間って、決して悪い訳ではないよね、人と会わなければ人から嫌われる事もそれに怯えることもなければ、自分が何かの過ちで人を傷つけてしまうこともないのだから、と、ネガティブ信仰者は申していた。

この点、確かにそうだとただ頷く。

 

爪弾きにされる事は苦ではない、馬が合わぬと目の敵にする人はどうせこちらが何をしたって非難するからだ。

だからといって、好んで忌避されているような奴なんかはただの天の邪鬼だ。

人と接するのが苦手だ、口は災いの元と言うが、それが起因して傷付けたり忌み嫌われる事は少なくない。

人を傷付けたり、または傷付けられたり、勘違いで思い込みされたりするのが恐怖だった、故に気付いた頃には縁切り癖がついていた。

自分から連絡を取る事も少なければ、遊びの計画は大概他人任せだし、そもそも人の目を見て話すのが得意ではない。

だからこそではあるが、私の数少ない友人には、いやまったく同類の様な人や変わったような奴や、常識人とは言えない人もまま多かったが、至って感謝しかない。

 

苦手なタイプの人間は一定数いたけれど、その苦手なタイプのひとつが友人と思っている人の特徴のひとつだったとして、邪険に思うことはない、それよりも個としての傾慕の方が勝るからだ。

然しながら、一人を好むことも起因して、嫌いと思われていると勘違いされる事もあった、君どうせ自分みたいな奴は嫌いなんだろ?と。

どちらかと言えば寧ろ、苦手な事があるのにも関わらず、あなたを好きでいるのだから強固じゃない?という意図があるのに伝わらない、口下手だと呆れられる。

こんな人が人間関係の禍の中で働くなんぞ、と、昔を知っている人間からは嘲笑われた。

分かっているさ、そんなこと、優しくできるタイプでも好かれるキャラクターでもないことくらい、と、皮肉まがいに言い放った言葉は宙を泳いだだけで自分に反響した。

思えば、そうやって大事に築いてきたものが、何かをきっかけに水の泡のように、砂となって掌からすり落ちてしまうから、他人が他人としてでしか存在してなかったのだろう。

だから、その点、一向に穏やかである、誰とも会わないというのは、何せプラスにもマイナスにも差し迫らないから。

 

だからといって、会いたい誰かがいないわけでは決してない。

そしてその会いたい誰かが特定唯一の誰かに留まるわけでもない、もちろん、家族や恋人、友人といったベクトルの差はあれど。

何処の店もやっていないのは不便極まりないけれど、何処の店もやっていないからこそ後悔することが減った。

あぁ、昨日行っとけばよかったな、会っとけばよかったな、なんて妬む事がない故に一層心が歪むことがないことは否めない。

一人が好き、けれど、一人でいたいかどうかはその時々によりけりだ。

他人が好き、妬ましく思うくらいに人と接するのが何しろ刺激となって昇華させるこの興奮が、私は誰彼構わず楽しく会話できるんだと錯覚させるくらいには。

色んな人と知り合いたい、楽しく話したい、そして出来たら仲良くできたら嬉しい、それでその上で可能なら、好いてくれたら居心地がいい。

夢見がちなそんな幻想だって、可能にしている人は沢山いる筈で、何となく一人遊びが得意でない人と友達にはなれないわ、なんて思いながら、それでもここにひとりで書き示して、あぁ、忘れられるのが嫌なのかもなと呆れ狂う。

 

夏が空を照らす頃には、もう少し濃密な交錯ができているといいですね。

錯綜

昔から、一人遊びが上手だったので、誰に会わずとも、どこに行かずとも、案外悠々自適な生活ができてしまうから、淘汰された挙句に、結局必要だったものはほんの少しの手に握れる程で、大概が、娯楽か、暇を持て余したか、ちょっとの気分に揺れ動かされただけのものだったように思う。

 

情報というものが、錯綜し過ぎていて真偽が掴めないことが多いな、と感じるのは、多分どこにも出掛けなくなったお陰で情報ツールを駆使するようになった事と、人と喋らなくなったことが起因しているんだと思う。

今に始まった事ではないのだろうけれど、それにしたって有耶無耶な発言をする輩は一定以上に増えた気はする。

そして更に、そこに怒りの感情を持ち込む事によって益々霞ませている事に気付けていない。

高圧的な態度で怒る上司や、先輩や、先生の言う事を、理解出来たことがあったろうか、と、考えてほしい。

怒りの感情をぶつける事は、当人の憂さ晴らしでしかなくて、伝えるには一番遠回りな方法だと思う。

怒ったところで何一つ、伝播されない。

 

私はコロナ渦中の病院で、コロナ検査をする人間のひとりで、そうすると大変だろう、と、感謝の声もよく届く。

有り難いことではある、が、誰しも目の前に仕事を置かれたらやるのではないか?とも思っている。

仕事にはリスクが伴う、どんな仕事にも。

そのリスクに対する覚悟の上で、給料を貰っているのだから、何も褒められたことではない、自分の為だ、まして仕事があることの方が有り難い。

と、いう話をするのも、私はこのご時世だからと「今私達は死ぬ気で働いています!どうかエールを下さい!」と言っている医療従事者にただただ鳥肌が立つからだ。

 

与えられる事が当たり前と思うなよ、と感じる事が増えた。

見てください、聞いてください、助けてください。

皆、同じだ、誰しも各々のベクトルで大変なのだ。

自分ばかり特別とは思わない方がいい。

こういう事態になるとまず娯楽が最初に消える、至極当たり前に。

そしてそれの消費を手助けしていた他の産業も共倒れていく。

自分の事で精一杯だ、手助けするだけの余裕がある人はごく一部だと思う。

それでも、忘れないでとは、思う。

またいつか、帰って来てください、あなたの余裕ができたらでいいから、と。

常は、当たり前ではなく、与えて与えられて成り立っていた事を努努忘れてはいけない。

 

そろそろ夏が来る。

夏に考えていたことは何だったか、何をしていたか、何を感じていたか。

でもやはりどんな時だって、やらねばならない事は変わらない気がするのだ。

晨星落落

街から、あらゆる光が、ぽつぽつと消えた。

あそこの店、潰れたってよ、だからって、助けてやれる預金はすり減っていくから、誰ともすれ違わなくなったし、他人のフリを極めた住人は皆、視野狭窄になって、小さい事で激怒している。

高圧的な態度のオジサマは、吐いた唾液で窒息しそう、なんて、列を乱して菓子袋を抱えたお子様が泣いている、一斉に、指差して感染源だと罵った。

余裕がないんだなって、呆れて、自分のことしか語らない自分大好きちゃんは、みんなで頑張ろうってありきたりな言葉を並べて、なけなしの顕示欲を保ってる。

自分ばかりがしんどいと、思う人間にはならないようにしようとだけを心に留めて、笑っている、インスタ女子の投稿は、遂にクッキーを焼くだけになってしまった。

政治家があれを語る、思想家がこれを呟く、そのタイミングで流れてくるミュージシャンの歌、それらみんな大金持ちだったから、家にいろなんて言葉が優雅に聞こえて、今夢中になれることと言ったら森で動物と戯れるくらい。

会いたい人に会えなかったり、もうめんどくさいから一緒に住むことにしてみたり、そしたら子供ができちゃって、良く分かんないけど捨てられる缶ビールのゴミは確実に増えていた。

 

制限され尽くされて、生活がシンプルになって、意外と自分一人で完結できてしまうものの多さに気付く。

雑多にばら撒かれたものの中から、本当に必要なものとそうでないものが淘汰されていく。

そして、思った以上に、どうでもいいものを抱きかかえていたし、どうでもいいものがどうでもよくない程に楽しかったと気付く、そういう無駄は、ずっとどこまでも、変えられぬ愛しきもの。

昔、大切にしていたチョコレートの缶ケースに閉まってあったガラクタは、今はとうに捨てたけれど、その時には必要なものだった、つまり、そういうことだと思う。

でも、きっと、危険を脅かしてまで、生きていけない程には、守るべきものは入ってなかったように思う、結局、我が身ひとつでできてしまうものが想像より遥かに多かった所為で、少しだけ虚しいんだ。

最前線で働いていて頭が上がらない、だとか、こんな中でも物を売ってくれて助かってる、だとか、そんな言葉が欲しくて働いているわけじゃなかろうに、まして、仕事がある方がありがたいだとか、いやでも家にいれば良いのだからありがたいだとか、結局目の前で起こっているのは自分の出来事でしかないから、そんな心配よりも他愛のない話で笑いたい。

 

この前、神社に行ったら桜が散っていた。

やたらと暖かいと思ったら、巣から鳥が羽ばたいて、どうも騒がしいのは人間界だけらしい。

もうちょっと、洒落たジョークを言われたくらいだったら、こうも淀まずにいたかしらね。

今、伝えなければならないこと。

毎日コロナ、何処行ってもコロナ、コロナという言葉がそろそろゲシュタルト崩壊しそうです。

今、この時期に、ここで何を書くべきか、しばらく考え倦ねていた。

本来、あまり具体的なことは書かないようにしている。

あまり、具体性を持たせて分かってしまう事を個人的に良しとしないからだ。

でも、それと、これは、別だ。

書いておかなければならないことがある。

臨床検査技師という医療従事者として、水商売というサービス業をする従業員として。

 

新型コロナウイルスというものが流行した当初、今と比べて少ないとはいえ、あらゆる症例が上がっていたが、それをざっと読んだ上で別段重要視していなかったように思う。

風邪程度、まぁ、年寄り子供じゃなきゃ死なないだろう、と。

それは、大概、今も変わっていない。

確かに若者で亡くなった方もいるが、割合からしたら少ない方だろう。

問題はそこではないように思う。

若者が、無症状で、感染してしまうこと。

そして、それが例え発症したとして、新型ウイルスなのか、それとも風邪なのか、他の肺炎なのか、中々区別がし難いこと。

この二つが厄介であるように思う。

例えばインフルエンザウイルスのように感染した事がすぐにわかるくらいの症状が出るなら、きっとその人は休みをとってなるべく他人と接しないようにするだろうし、そこで感染を拡大することも防げるだろう。

例えば、このウイルスが、他の疾患とは違う特有の症状が出るのならば、感染した事が分かって外出を控えるのかもしれない。

それが、この新型ウイルスでは不可能なのだ。

それだけ、無症状で、もしくは通常の風邪だと思って、他人に移すリスクが高くなる。

即ち、自分は大丈夫であっても、それが大丈夫でない人が感染する可能性を存分に高めているのだ。

酷な事だろ、我介せずで出歩いてた身勝手な人が、他人を殺すんだから。

 

でも、と、思う。

日本経済、だけでない、世界の経済が停滞している事は、放っておけることではない。

身近でも何人もの人が職を彷徨っているし、この状態がずっと続いたら倒産する、なんて声が至る所から聞こえてくる。

既に潰れた、やめた、という話は後を絶たない。

なんてこった、自粛要請を出した張本人が何の援助もしてくれないなんて!!

なーんて嘆いたところで現状、変わらない訳です。

きっと、だからこそ嘆きの彼らは言うだろう。

目に見えない命の危機より、目に見えて迫っている生活の危機の方が重要だ、と。

正直、そう言われたら、もう、そうですか、と言うしかない。

生きていたら何とかなるよ、という考えの人もいれば、生きていたって金がないなら死んだ方がマシ、という考えの人もいる。

極論を言えば、危機なんてものは、差し迫らないと理解し難いものだ。

 

幸か不幸か、私は医療現場にいる。

仕事はなくならないどころか押し寄せている。

更には今まさにそのコロナ検査をしている張本人でもある。

仕事は立て続けに増える一方、他の検査がなくなるわけでもなく、医療崩壊なんて言葉がネット上に飛び交っていたが、まさしく、である。

医療従事者の疲労とストレスは限界突破しているようにも見受けられるし、それで院内感染だなんだと騒がれたらひとたまりもない、何せ大抵の人間が通勤ラッシュ時の電車通勤なんだから。

アナタたち、ワクチンを急げ、検査をもっと、なんて言う割に、現場がどうなっているのかなんて見ようともしないのね?と、皮肉を売っている。

このコロナの一件で、忙しくなった割に給料は相変わらずな事に関して、帰り間際に中指立てている事はご内密に。

 

さてさて、このすべてを加味して、私は、あなたは、どうあるべきか、考える。

今までも、今も、これからも、良い子で自粛する人は自粛し続けるだろうし、私には関係ない自粛なんてするもんかと思ってる人は出歩くだろう。

私は、自粛してる人に対して経済を回せ、とも言わないし、娯楽に出歩いてる人に自粛しろ、とも言わない、あなたは私じゃないから。

ただ、考えて欲しいのは、あなたの身近に、年寄り子供や、病気がちな人がいるかどうか。

自分はいい、でも、もう、自分だけいい、では済まされないのだと思う。

私は大丈夫、では言い逃れできないのだと思う。

それだけ、即ち、個の責任は強い。

そういう人が身近に居るならば、やっぱり控えた方がいいんじゃないかなって、思う。

若くて健康ならいいよ、あなたもきっと若くて健康なんだろうけど、そうじゃないあなたの大切な人は、あなたの所為で死ぬかもしれないね。

そしてあなたが出歩く事で誰かにとっての大切な人をも脅かすかもしれないね。

でもね、仕事しに電車乗るだけでもリスクあるのよね、そうなったらさ、もうどうにもならないじゃない、そんなのどうにでもなれ、って思うよ。

だから、そう思うなら、もう、今だからこそしゃかりきに働けよ。

それで、その金握り締めて破綻するくらいまで経済回せよ。

命救う気ないなら、日本の経済救え。

いや、日本の経済なんて大袈裟なことは言わない、あなたの身近な大好きな場所や物にその金を使いなよ。

たんと遊んでたんと飲んで、たんと金落として、あなたの大切な場所が潰れないようにあなたの力で守りなさいな。

生かすも殺すも全ては消費者にかかっていることなのだから。

 

このご時世だから、と、外に出るのも、このご時世だから、と、外に出ないのも、その人それぞれの判断だろうし、それを止めるも促すも、周りは何も出来ないのだけれど、それでも、どのご時世だろうと、やらねばならないことや行かねばならない場所は相変わらず変わらなくて、だから、愛する人や愛する居場所の為に、あなたはあなたなりの方法で、あなたの大切な人を守ってくださいと、切に願います。

手遅れにならぬ様、願っております。