脳がない!

カリソメの体でしか生み出せないものたち

自分を売ること。

目に見えて起こっていく変化を前にして、目に見えない小さな変化を心の底で大事に育ててる。
枯らさないように、少しでも、高く。


人と向き合ったときに、その人がどんな人で、どんな経験を積んできて、この先どんな付き合い方ができるか、みたいな嗅覚は、人より優れているつもりではいる。
その嗅覚を持ってして、自分の語り口を考えたときに、出方を探るのは癖みたいなもので、大事にしたい人であればある程その色を増していた。
ところで、先日の職場の同期とか、その上の人達と話してるときの違和感は、そこに削る労力を費やさなかったことで、それはつまり私の中で“どうでもいい人達”という立ち位置を形成していることを意味していた。
飲みの席は容易い、帰ったら細かいことは忘れてくれるし、饒舌なフリさえしていれば(女の子と付き合ってた話と下ネタは吃驚するくらい有効らしい)、反応の内に見える本音を垣間見ることができたりする。
そこで感じ取れる異色の目はゾッとする程快感で、その捨て駒を私の大手だと思い込ませていることへの奇妙な背徳感がやけにリアルで、そこで冷静な目が“ないな”と言って鋏で糸を切る。
とは言いつつも、その嗅覚に頼りすぎた直感で、踏み込ませるか否かのラインを始めの10秒で定めているのはこちら側だってこと、分かってる。
だけど、だからこそ、私は良い人にはなれないのだけれど、本当に大切な人に対して大切だと言えることだけは擁護できているのだろう。


ざわついた感情の波の中で、いらないもの、あったら便利だけどなくても生きられるもの、ないと生きられないもの、それらがふるいにかけられる。
ないと生きられないものは案外と少なくて、だけれどそれを守る方がそれ以外を握り締めることより苦難するということ、そしてそれは生きていく中で変わっていくこと、実感として感じたのはついこの間。
もがくしかなかった、けど、耐えるだけではないのだ、と。
だから、そう、私の生かし方を私でリアルにするしかない。
負け戦なんて、望まない。